いま最も熱く、たぎっているプロレス。
見れば見るほどに夢中になり、会場でリング上のプロレスラーたちが織り成す激アツな闘い、言葉のやり取りを聞いているだけで、興奮が止まることはない。
その、プロレスにも、もちろん始まりがある。
1953年7月30日 プロレスラー、力道山が日本プロレスリング協会を結成した
プロレスファンなら、プロレスの原点は「力道山」だと即答するほど、知っている人も多い。
1953年(昭和28年)7月30日は、プロレスラー・力道山が中心となり日本プロレス協会が結成された日にちなんで、プロレス記念日となっている。
2021年で、日本プロレス協会が結成されてから68年目になる、スポーツの歴史としては、まだ若い方かもしれません。
でも、いまのプロレスは、きっと当時のプロレスよりも、プロレスラーとファンが一体になっている感じもあり、当時とは違う形で、熱く、たぎっていると思います。
68年の間には、いろいろなこともありましたが、この数年、人気も上がり、今では電車に乗っていても、街を歩いていても、プロレスラーのTシャツやバッグなど、グッズを身に付けている人も多く見かけるようになりました。
ちなみに、プロレスには、7月30日の「プロレス記念日」以外に、2月19日「プロレスの日」もある。
プロレスラーなのに「力道山」?と思った人もいるかもしれません。
そう、力道山は大相撲の元力士なのです。
元力士から、プロレスに転身し、第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築いた「日本プロレス界の父」と呼ばれています。
当時、放送が始まったテレビ放送の影響もあり、絶大な人気を誇っていました。
力道山は昭和時代の力士から、プロレスラーに転身、プロレスを世の中に広げた「日本プロレス界の父」
1924年(大正13年)11月14日朝鮮生まれ、のちに、長崎県大村市の百田家の養子となったことから、本籍は長崎県となっている。
本名は、金信洛(キム-シムナク)だが、養子となったことで戸籍名は百田光浩になる。
1939年(昭和14年)二所ノ関部屋に入門。
1940年(昭和15年)に、力道山の醜名(しこな)で初土俵。
得意の張手で1446年(昭和21年)に入幕し、1949年(昭和24年)に関脇昇進するも、1950年(昭和25年)関脇の座を最後に、8月の夏場所後に引退した。
1951年(昭和26年)相撲力士から、プロレスラーに転身。
1952年(昭和27年)渡米し、修業後アメリカ国内を転戦中に、300戦して5敗の好成績をおさめた。
空手チョップで、プロレスブームの立て役者となり、日本におけるプロレスリングの創始者でもある。
日本選手権、世界タッグ選手権やインターナショナル選手権など、数々のタイトルを獲得し、日本プロレス界に一時代を築いたプロレスラー。
1953年(昭和28年)に日本プロレス協会設立。
1954年(昭和29年)2月、世界タグチャンピオンのシャープ兄弟を招待した試合は、草創期のテレビで放映され人気を博した。
ジャイアント馬場(現:全日本プロレス)、アントニオ猪木(現:新日本プロレス)らを育てている。
1963年(昭和38年)12月15日(39歳)のときに、暴力団に刺された傷が原因で死去。
2006年には、力道山の映画が公開されているようです。
わたしは、力道山の時代のプロレスは見たことがないけれど、プロレスを築いたのは、力道山だと、いまだに伝え継がれているのは、すごいことだなと思います。
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