デスマッチのカリスマ葛西純「狂猿」は何度も観たくなる映画

プロレスラー本

2021.5.28から順次公開がスタートしている映画、デスマッチのカリスマ葛西純「狂猿」。

新日本プロレスの高橋ヒロム、エル・デスペラードが試写会に行った後のツイッターで絶賛していた。

その絶賛ぶりから、観たいと思い、映画館に足を運んだら、何度も観たくなる映画だった。

葛西純は、どうしてデスマッチというスタイルを選んだのだろう。

葛西純の名前は知っていたけど、実際は詳しく知らなかった。でも・・・

デスマッチでプロレスをするレスラーとして、葛西純の名前を聞いたことはあった。

でも、デスマッチは、蛍光灯に体をぶつけたり、蛍光灯を割ったり、鉄線で殴り合ったりと、正直どうして、そういうプロレスをするのか?疑問に思っていたのが映画を見る前のわたし。

映画の中の葛西純という人を観ていくと、ただ、体を傷だらけにすることを考えているのではないことがわかる。

体を張って、命をかけて、そのうえで、パフォーマンスとして魅せるプロレスをしている。

以前デスマッチをやっていたプロレスラーや、すでに引退しているプロレスラーも登場する。

現在、葛西純と同じリングに立つプロレスラーも、みんな、真剣に自分の身体を張ることに向き合っているのだ。

葛西純。

映画を観ていく中で、この人に会って、話してみたいと思った。

映画を観終わった後には、とにかく「いい映画を観た」この一言しか浮かばないほど、いい映画なのだ。

葛西純の本心をそのまま感じるからこそ、葛西純の魅力が全開の映画「狂猿」

ドキュメンタリー映画というと、なんだか重いイメージがあったり、プロレスラーという仕事柄虚勢を張ったりするのかな。

そんなことを思っていた。

でも、スクリーンの中の葛西純は、わたしの想像を嬉しいくらいに裏切った。

首と腰のヘルニアが悪化し、当面の間休むこととなった葛西純の中で、これからのプロレスラーとしての人生、デスマッチを続けていくことへの不安、恐怖。

そういったことを、隠すことなく話す葛西純を見ていると、ちょっとした安心感が私の中に生まれた。

そうか、リングの上で自分の身体を傷つけている、体当たりしている人でも、やっぱりこういう思いはあるんだ。そう感じられたことで、葛西純という人に対しての親近感とでもいうのか、心の中に浮かんでくる。

さらに、子どもと過ごす時間、ネットショップの梱包をするシーン、公園でトレーニングをする葛西純と、様々な葛西純という人の人生の一部を観ることができる映画なのだ。

1つ1つのシーンを観るたびに、自分もその場に一緒にいるような錯覚すら感じる。

最初に行った映画館「シネマート新宿」には、かみそりボードが飾られていた。

葛西純とエル・デスペラード

エル・デスペラードは、以前、葛西純との試合であごの骨が砕かれ、欠場したことがある。

エル・デスペラードは、葛西純をリスペクトしていて、ここぞというときには、葛西純を意識したスーツ姿で登場することもある。

また、必殺技の1つに、葛西純をあだ名であるクレイジーモンキーを含めている技まであるのだ。

葛西純の自伝にも、エル・デスペラードのことが書かれている。

試合後、入院・手術をしたエル・デスペラードの見舞いに行ったときに、辛そうにしているかと思ったらYouTubeを見て笑っていたそうだ。

そんな、エル・デスペラードのことを、葛西純もまたカッコいいと思ったのだという。

男と男の友情。

いまではとてつもなく古臭い言葉かもしれないが、葛西純と関わる人は、この言葉のように、葛西純の人生に関わり、そして、葛西純に自分の人生を狂わされていくのかもしれない。

葛西純の自伝から「葛西純が大切にしているもの」で心がアツくなった

自伝の中に、家族との時間を大切にしていると書かれている。

子どもの授業参観、運動会などイベントにはすべて行くという。

その中で、親が朗読をする時間があり、お母さんばかりの中で、葛西純は男一人やっていたという。

きっかけは、奥さんから「あんたがやったら面白いかも」という一言だったという。

多くの男性は、子どもの行事で、他に男性がやっていなければ、嫌だと拒否をし、やらない人の方が多いのではないだろうか。

プロレスラーの魅力の1つに、人は関係ない。自分がどうかだというのを感じているわたしは、この一説を読んだ時にも、あー、やっぱりプロレスラーってこういうところがカッコいいんだよな。と思ったのだ。

その朗読を続ける中で、校長先生が葛西純に声をかけてきて、学校でいじめ撲滅の運動の一環でプロレスをやることになったという。

その試合は大盛り上がりだったと書かれている。

このエピソードを読んだ時に、映画の最後に流れる葛西純の言葉の意味が分かった。

「俺の背中をみろ」この言葉の全文は覚えていないが、とにかくこの一言がインパクトがありすぎた。

この言葉が1度見たときから、頭から離れない。

それほど、カッコいい。すげーと思ったし、鳥肌がたった。

この全文は、ぜひ、映画館で自分の耳で、自分の目でみて感じてほしい。

葛西純に会える!2度目は舞台あいさつに行くと決めた

まだ、映画は公開中だし、これからもどんどん上映館が増えていくだろう。

だから、あえて映画の内容には触れずにいよう。

ただ、1回目に「狂猿」を観たときに、葛西純に会いたい。

葛西純と話したい。そう思ったのだ。

本当なら会うこと自体が難しいと諦めるかもしれない。

でも、話せなくてもいい、葛西純を生で観たいという思いから、舞台挨拶の上映会を探し、2回目の上映を観る。

すると、舞台挨拶後に、急遽、サイン会を開くというのだ。

サインは、「狂猿」のパンプレットにのみだという。

これはチャンスだ、パンフレットは1回目に買った。

しかし、もちろん2冊目を購入し、サインを待つ列に並ぶ、一歩一歩と葛西純に近づくが緊張はない。

サインをしていただいている間、伝えたいことを整理する。

そして、やっぱりこれしかないと伝えた言葉は、「俺の背中をみろ」この言葉がすごくよかった。

この一言だった。

名前だけを知っていた葛西純。

1回目の上映で、会いたい、話したいと感じた思いが、早くも叶った瞬間だ。

かっこいいそう感じた葛西純の映画の一コマで、わたしの心を射抜いた一言に感じたことを、直接伝えられた。

それだけで満足だったのだ。

きっと、これからも葛西純は、デスマッチのカリスマとして歩みを止めることはないだろう。

映画の中で、藤田ミノルが普通のプロレスはコントで、葛西純のプロレスは漫才だと表現した。

この表現は、まさにそうかもしれない。

高さ6メートルある後楽園のバルコニーから飛んだ「バルコニーダイブ」などを観ても、まさに形の決まったコントではなく、その瞬間を1つ1つ切り取っていく漫才だと言われれば、妙に納得がいく。

実際は「狂猿」の中でみた葛西純は、ごく一部に過ぎないだろう。

でも、この映画を通して見れる葛西純は、それだけで人を惹きつける何かがあるのだ。

映画監督は、プロレスラーといったら葛西純しか知らなかった。だから撮りたかった。

そう思う気持ちが伝わってくると同時に、映画のパンフレットの中で葛西純も話しているが、本当にプロレスを知らないのか?と疑問を持つほどに、リング上の葛西純を、デスマッチのカリスマ葛西純として、映像に収めている。

また、葛西純の奥さんやお母さんが、葛西純を支えながらも、この人だからなんだと感じさせられる。

人の人生を垣間見るというドキュメンタリーは多く見るが、観ながらにして、その場に一緒にいるような錯覚に陥るのは、この「狂猿」だけではないだろうか。

しかも、2度目の時には、舞台挨拶があるたびに観に来ているファンも多く、狂猿のTシャツを着ている日も多かった。

葛西純の自伝も販売されている。

また、かみそりボードのミニ版もグッズとして売られているところもある。

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